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「すべて佐川局長の指示です」森友問題で自殺した財務省職員が遺した改ざんの経緯(文春 - 七転八起Shichitenhakki

2020/03/25 (Wed) 21:38:02

「すべて佐川局長の指示です」――森友問題で自殺した財務省職員が遺した改ざんの経緯【森友スクープ全文公開#1】 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/36818




※転載元画像あり


「週刊文春」2020年3月26日号に掲載された大阪日日新聞記者・相澤冬樹氏による記事「森友自殺〈財務省〉職員遺書全文公開 『すべて佐川局長の指示です』」が大きな反響を呼んでいる。「週刊文春」編集部は完売により記事が読めない状況を鑑み、文春オンラインで全文公開する。真面目な公務員だった赤木俊夫さんに何が起きていたのか。森友問題の「真実」がここにある。

出典:「週刊文春」2020年3月26日号

◆ ◆ ◆




 2年前の3月7日、近畿財務局職員・赤木俊夫氏(54)が自ら命を絶った。安倍昭恵夫人が関与する小学校への国有地格安払い下げが国会で問題となる中、起きた決裁文書の改ざん事件。真面目な公務員は、なぜ公文書を改ざんし、そして死を選ばなければならなかったのか。「財務省が真実に反する虚偽の答弁を貫いている」「最後は下部がしっぽを切られる」。A4で7枚の痛切な「手記」やメモには、その経緯が克明に綴られていた。「隠蔽の安倍政権」の真実がついに明らかに――。

文:相澤冬樹〈大阪日日新聞記者〉




森友問題
佐川理財局長(パワハラ官僚)の強硬な国会対応がこれほど社会問題を招き、それにNOを誰れもいわない
これが財務官僚王国
最後は下部がしっぽを切られる。
なんて世の中だ、
手がふるえる、恐い
命 大切な命 終止府(ママ)



 ノートに走り書きされたこの短い文章は、財務省近畿財務局管財部の上席国有財産管理官だった赤木俊夫さん(享年54)が死の直前に書き残したもの。「手がふるえる」という箇所に下線が引いてある。実際、文字も震えているように見える。

闇に隠れ、世間から忘れられていった「手記」

 赤木さんは、世を騒がせた森友事件の公文書改ざんを上司に強要され、自ら命を絶った。2018年(平成30年)3月7日のことだ。彼が何かを書き遺したようだという話は当時からあった。しかし厳しい情報統制が敷かれて詳しい内容はわからず、死を選ぶに至った事情は闇に隠れたまま、世間から忘れられていった。

 ところが実は、彼の自宅のパソコンには「手記」と題した詳細な文書が遺されていたのだ。A4で、7枚。そこには、近畿財務局で密かに行われた驚くべき出来事が克明に綴られていた。

 私がこの「手記」を初めて目にしたのは、赤木さんが亡くなって半年あまりがたった11月27日のことだった。大阪・梅田の喫茶店。そこで私は赤木俊夫さんの妻、昌子さん(仮名)と初めてお会いした。NHKで森友事件を取材していた私が、記者を外されNHKを辞めたことをどこかの記事で知り、会いたいという話だった。


「これ、見たいですよね?」

 私は昌子さんを取材したことはなかったが、NHK時代に同僚記者から「取材を避けている」と聞いていた。また事前に昌子さんから「質問には答えられないと思います。マスコミと職場(注・夫の職場、近畿財務局)がとても恐いです。そこを理解してください」と伝えられていたので、すぐに取材にはならないだろうと考えていた。

 ところが昌子さんはあいさつを交わしてまもなく、カバンから数枚の紙を取り出した。「これ、見たいですよね?」。それが俊夫さんの「手記」だった。存在は語られていたが記者は誰も目にしたことがなく、詳細がわかっていなかった「手記」。それが今、目の前にある。こんな時、記者は興奮を抑えられない。少なくとも私はそうだった。

 私は声に出して文書を読みながら「この部分、すごいですねえ。こんなことが書いてありますよ」と昌子さんに語りかけた。昌子さんが周囲を気にして「声が大きすぎます」と注意するほど。


 ざっと読んだだけで内容の重大性はよくわかった。「これ、コピーを取らせて頂くことはできませんか?」「だめです」「写真は? メモは?」「どれもだめです。目で見て覚えてください」。最後に昌子さんは「手記」をしまうと「これは記事にしないでくださいね。相澤さんに裏切られたら私は死にます」と言い残して去った。

昌子さんは「手記」を託し、夫の後を追うつもりだった

 だいぶ後にご本人から聞いたのだが、実はこの時、昌子さんは夫が遺した「手記」を私に託して、そのまま夫の後を追うつもりだったそうだ。ところが興奮する私の様子を見て「手記」を託すのをやめ、同時に命を絶つのもやめた。つまり私は重要文書入手という記者の仕事をしくじったのだが、知らぬ間に昌子さんが自死を思いとどまるという“けがの功名”をあげていたことになる。人生何が幸いするかわからない。

 当時、私は『安倍官邸vs.NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由』という本を文藝春秋から出す直前で、発売日に合わせて12月13日発売の週刊文春で関連記事を書くことになっていた。赤木俊夫さんの「手記」の話を聞いて文春編集部は色めき立った。

「それはすごい。何としても出したい。ビッグニュースになります」

 その通りだが、私は無理だろうと感じていた。「出したら死ぬ」と情報提供者が話しているものを無断で出すわけにはいかない。そして昌子さんがそうすぐに考えを変えて公表に同意するとも思えなかった。


誠意のない態度で亡き夫の職場への気持ちが変化

 それから1年4カ月。今年3月7日に俊夫さんの3回忌を迎え、法要が無事終わった。詳しくは後述するが、この間、財務省と近畿財務局は昌子さんに誠意のない態度を繰り返した。亡き夫の職場を大切に思っていた昌子さんの気持ちも大きく変化した。

 こうして昌子さんは俊夫さんの「手記」の公開を決意するに至った。今、初めて世に出るその内容を詳しく見ていこう。そして、俊夫さんが死に追い込まれた状況、死後に昌子さんが味わった苦しみと悲しみを多くの方に知って頂きたい(以下、《》部分は赤木氏の手記からの抜粋。適宜省略し、注釈を加えた。★リンク別記事★にて手記の全文を掲載する)。







《私は、昨年(平成29年)2月から7月までの半年間、これまで経験したことがないほど異例な事案を担当し、(中略)強度なストレスが蓄積し、心身に支障が生じ、平成29年7月から病気休暇(休職)に至りました。

 これまで経験したことがない異例な事案とは、今も世間を賑わせている「森友学園への国有地売却問題」です。

 今も事案を長期化・複雑化させているのは、財務省が国会等で真実に反する虚偽の答弁を貫いていることが最大の原因でありますし、この対応に心身ともに痛み苦しんでいます。》



 ここで書かれている「森友学園への国有地売却問題」が明るみに出たのは3年前の17年2月8日。この国有地だけ売却価格が明らかにされないことを不審に思った地元・大阪府豊中市の木村真市議が、情報公開を求め裁判を起こしたのがきっかけだった。この国有地には森友学園の新設小学校が建つ予定で、その名誉校長には、安倍晋三首相の妻、昭恵さんが就任していた。

 翌日、朝日新聞がこの問題を大きく報じたことで国会で火が付いた。野党の追及に財務省は、鑑定価格9億円余の土地を8億円以上も値引きして売却していた事実を明かした。

ターニングポイントは首相答弁

 ターニングポイントとなったのは2月17日だ。この日、国会で昭恵夫人の国有地取引などへの関与を追及された安倍首相は、こう言い切った。

「私や妻が関係しているということになれば、間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということは、はっきり申し上げておきたい。まったく関係ない」


 7日後の24日には、財務省の佐川宣寿理財局長(当時)が国会で「交渉記録はない」「売買契約締結をもって事案は終了、速やかに廃棄した」などと答弁。

 実際には、国有地取引の経緯を記した改ざん前の公文書には「安倍昭恵首相夫人」の名前が繰り返し記されていた。


手記が記す改ざんの経緯「すべて、佐川理財局長の指示です」

 その2日後、これら公文書の改ざんが始まった。「手記」はその状況をリアルに記している。



《元は、すべて、佐川理財局長の指示です。(中略)学園に厚遇したと取られる疑いの箇所はすべて修正するよう指示があったと聞きました。




 佐川理財局長の指示を受けた、財務本省理財局幹部、杉田補佐が過剰に修正箇所を決め、杉田氏の修正した文書を近畿局で差し替えしました。

 第一回目は昨年2月26日(日)のことです。

 当日15時30分頃、出勤していた池田靖統括官(注・赤木俊夫さんの直属の上司で、問題の国有地取引の実質的責任者)から本省の指示の作業が多いので、手伝って欲しいとの連絡を受け、役所に出勤(16時30分頃登庁)するよう指示がありました。》



「池田統括が困っているから、ぼく助けにいくわ」


 この日のことを妻の昌子さんは今もはっきり覚えている。日曜日で、赤木さん夫婦は昌子さんの母親とともに自宅近くの梅林公園を訪れていた。その時、俊夫さんの携帯が鳴った。通話の後、俊夫さんは「池田統括が困っているから、ぼく助けにいくわ」と言い残し職場に向かった。昌子さんは語る。「トシくん(昌子さんは夫の俊夫さんをこう呼ぶ)は池田さんより年上だけど、池田さんのことを尊敬していて本当に好きでした。だから『助けに行く』と聞いても疑問に思いませんでした。まさかあんなことをさせられるために呼ばれたとは……トシくんも職場に行くまで知らなかったんでしょうね」

 この日、俊夫さんは割と早く帰ってきたという。後に改ざんが発覚した時、俊夫さんは昌子さんに「あの日は(抵抗する)時間がないからやってしまったんや」と話していたそうだ。しかし俊夫さんが亡くなった後、弔問に訪れた池田靖統括国有財産管理官は、「彼は一回目から(改ざんに)抵抗していた」と明かし、「自分がやろうと思ったけど手が回らなかった。自分がやればよかった」と悔やんだという。

 ところが、改ざんは一回では済まなかった。





「まさに生き地獄」――55歳の春を迎えることなく命を絶った財務省職員の苦悩【森友スクープ全文公開#2】 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/36819



「週刊文春」2020年3月26日号に掲載された大阪日日新聞記者・相澤冬樹氏による記事「森友自殺〈財務省〉職員遺書全文公開 『すべて佐川局長の指示です』」が大きな反響を呼んでいる。「週刊文春」編集部は完売により記事が読めない状況を鑑み、文春オンラインで全文公開する。真面目な公務員だった赤木俊夫さんに何が起きていたのか。森友問題の「真実」がここにある。( #1、#3、#4も公開中)

出典:「週刊文春」2020年3月26日号



◆ ◆ ◆




《あっけらかんと修正作業を行い、差し替えを行った》

《その後の3月7日頃にも、修正作業の指示が複数回あり現場として私はこれに相当抵抗しました。

(注・近畿財務局の)楠管財部長に報告し、当初は応じるなとの指示でしたが、本省理財局中村総務課長をはじめ田村(注・嘉啓)国有財産審理室長などから楠部長に直接電話があり、応じることはやむを得ないとし、美並近畿財務局長に報告したと承知しています。

 美並局長は、本件に関して全責任を負うとの発言があったと楠部長から聞きました。

(中略)本省からの出向組の(注・管財部の)小西次長は、「元の調書が書き過ぎているんだよ。」と調書の修正を悪いこととも思わず、本省杉田補佐の指示に従い、あっけらかんと修正作業を行い、差し替えを行ったのです。

(大阪地検特捜部はこの事実関係をすべて知っています)》




 この記載から以下のことがわかる。

 現場の赤木俊夫さんは不正な改ざんに反対した。
→それに上司の楠敏志管財部長もいったんは同調した。
→しかし財務省理財局の中村稔総務課長(現・イギリス公使)らが圧力をかけ覆した。
→最後は近畿財務局トップの美並義人局長(現・東京国税局長)が「全責任を負う」と述べゴーサインを出した。
→大阪地検特捜部はすべてを知っていたが、全員不起訴にした。

「公務員として最低の人間や」

 また、ここで批判的に書かれている近畿財務局管財部の小西眞次長について、昌子さんには忘れられないエピソードがある。17年5月14日、日曜日。俊夫さんはこの日も休日出勤。昌子さんもたまたま近くで用事があり、近畿財務局の最寄りの大阪メトロ谷町四丁目駅で降りて、職場までの坂道を連れだって歩いていた。

 すると前方に、同じように休日出勤する小西次長の後ろ姿があった。俊夫さんは「あっ、次長や。あの人、こんな時にもスポーツジムに通ってる。体力あるんや」と話した。そこで昌子さんが「声をかけたら?」と言うと、俊夫さんは不機嫌な顔になって「公務員として最低の人間や」とつぶやいたという。

 この日の俊夫さんのメモ帳には、「小西次長も同時刻出勤されていた 話しはせず」と書かれている。



《これが財務官僚機構の実態なのです。

 パワハラで有名な佐川局長の指示には誰も背けないのです。

(中略)杉田補佐などが過剰反応して、修正範囲をどんどん拡大し、修正した回数は3回ないし4回程度と認識しています。》



俊夫さんは一人で不正な改ざんのかなりの部分を担わされた

 俊夫さんの直属の上司だった池田氏は改ざんについて「自分がやればよかった」と昌子さんに話している。一方、俊夫さんは生前、若い部下二人には「やらせていない。そこはよかった」と話していたという。とすれば、俊夫さんは一人で不正な改ざんのかなりの部分を担った(担わされた)のだろう。

 その若い二人と俊夫さんは、改ざんに涙を流して抵抗したと、彼らの上司だった池田氏は後に昌子さんに話したそうだ。

 財務省の情報隠蔽はこれにとどまらない。森友学園への国有地売却問題を受けて近畿財務局が会計検査院の特別検査を二度にわたり受けた際、財務省は次のように対応したという。






《決議書等の関係書類は検査院には示さず、本省が持参した一部資料の範囲内のみで説明する。

(中略)応接記録をはじめ、法律相談の記録等の内部検討資料は一切示さないこと、検査院への説明は「文書として保存していない」と説明するよう事前に本省から指示がありました。》



「絶対うまくいかない。絶対(検査に)合格しない」

 会計検査院の一回目の特別検査は17年4月11日から13日にかけて実施された。俊夫さんの手帳にはこの3日間に「会計検査(森友事案)」という記載がある。マメな俊夫さんは退庁時間も手帳に書いていた。11日と12日は22時50分、13日は午前3時10分、タクシーで帰宅している。メモ帳の別の欄には、13日に「検査院応答録 修正作業」と記されている。昌子さんは語る。「あの頃、朝晩最寄り駅まで車で送り迎えしていたんです。トシくんは車内でいつもこぼしていました。『絶対うまくいかない。絶対(検査に)合格しない。絶対もう一度ある』って」


 実際、検査は6月にもう一度行われた。

 この頃から俊夫さんは目に見えて元気がなくなっていった。以前はどんなに仕事が忙しくても残業が続いても平気だったのに。明るくてよく笑い、昌子さんにやさしく、けんかをしたこともほとんどなかったのに。

 昌子さんはこの年の4月に淡路島に行った時の写真を見せてくれた。

「ほら、トシくん、笑ってないでしょ。いつもはにこにこしていたんですよ。超明るい人で。それが笑うこともしゃべることも減って。会計検査のころは本当に辛そうで、仕事への意欲も薄れていたんじゃないかと思います」


俊夫さん以外全員異動……一人だけポツンと残された

 当時、俊夫さんの心の支えは、7月の人事異動で担当部署が変わることだった。そうすれば森友関連の苦行から逃れられる。直属上司の池田氏からは内々に「動かしてもらえるよ。大丈夫だよ」と言われたと、昌子さんに話していた。ところがふたを開けてみると、6月23日の内示の日、俊夫さんは異動しなかった。それどころか、同じ部署の他の職員は上司の池田氏も含め全員異動が決まり、彼だけがこの職場に残される形になったのである。

 しかもさらに追い打ちをかける出来事があった。問題の国有地の売買に関する資料がすべて処分されて職場から消えていたのだ。

「それがとにかくショックやった」と俊夫さんは話したという。昌子さんは語る。「むっちゃ落ち込んでました。一人だけポツンと残されて、資料はすべて処分されて……あんまりですよね」


 もちろん、あんまりだ。俊夫さんは問題の国有地が売却された後に担当になったから、実際の売買交渉の経緯は何も知らない。知っているのは上司の池田氏だが、池田氏はいなくなり、資料はない。となったら、後を引き継いだ人間はどうすればいいのか?

 俊夫さんのメモには、内示の5日後、6月28日のところに「18:30特捜部来庁」とある。これが資料の任意提出を受けに来たのだとしたら、その直前に関係資料がなくなっていたことは、どうとらえたらいいのだろう?

俊夫さんをさらに追い詰めた検察の捜査

 この後、俊夫さんの精神状態は悪化する。7月15日に精神科を受診、うつ病と診断される。7月19日、夫婦一緒に外出先で昼ご飯を食べた時は、震えがすごく顔は真っ青だった。その時、俊夫さんは「森友のことだけやないんや」と気になる言葉を残している。そして翌20日から病気休暇に入る。結局、そのまま職場に戻ることはなかった。

 病気休暇に入って90日がたつと、その後は休職扱いとなり、給与が減る。俊夫さんはよくお金のことを心配していたという。「(職場に)戻れるかなあ。森友のとこじゃないとこに」と口にしていた。だが職場からは「問題事案の担当は外すが、部署は異動させない」と告げられたという。

 異動がなかったことに輪をかけて俊夫さんの心を乱したターニングポイントがある。検察の捜査だ。問題の国有地の値引きについて、この年の3月22日と7月13日に市民団体や弁護士らの団体から「国に損害を与えた背任だ」と告発が出ていた。同時に「取引記録は廃棄した」と繰り返し答弁する佐川氏らに対する証拠隠滅での告発も出て、いずれも大阪地検特捜部が捜査していた。


「内閣が吹っ飛ぶようなこと」

 俊夫さんは国有地の売買には関与していないから背任は関係ない。だが証拠隠滅は? この頃はまだ公文書の改ざんは明らかになっていなかったが、心ならずも改ざんをさせられることになった俊夫さんは、自分も罪に問われることを恐れていた。ことあるごとに「大変なことをさせられた」「内閣が吹っ飛ぶようなことを命じられた」「最後は下っ端が責任を取らされる」「ぼくは検察に狙われている」とおびえていたことを、昌子さんはよく覚えている。


 その検察による最初の接触は11月17日に訪れた。職場を通しての事情聴取の要請だ。事情聴取は、容疑者扱いの取り調べとは違うのだが、不正な改ざんに関わった自覚のある俊夫さんには同じように感じられただろう。昌子さんは当時の様子について「震え上がっていました。怖くて怖くてしょうがない感じでした」と話している。

 そして12月25日、俊夫さんは震える小声で昌子さんに告げた。




「ドクターストップがかかってるのに、電話が来た」

「きょう、とうとう電話あったわ。医師は止めていたはずなのに。こんな辛いのに、ドクターストップがかかってるのに、電話が来た」

 この日のメモ帳には「久保田検事より受電」とある。

 実はそれに先だって検事が俊夫さんの主治医に事情聴取が可能か尋ねていたことが、主治医の話でわかった。主治医は「病状が悪化する」と聴取を止めた上で「手紙かメールでごあいさつ程度に様子をうかがったらどうですか?」と話した。だが検事はすぐに俊夫さんの携帯に電話をかけて20分間も話したのだという。20分は挨拶のレベルを超えている。事実上の聴取と言われても仕方ないだろう。


 これをきっかけに俊夫さんの病状は極端に悪化した。

「ぼくは職場に復帰したら検察に呼ばれる。検察は恐ろしいとこや。何を言っても思い通りの供述を取る。検察はもう近畿財務局が主導して改ざんしたという絵を描いている。そのストーリーから逃げられない。ぼくが何を言っても無理や。本省の指示なのに最終的には自分のせいにされる。ぼくは犯罪者や」

 妄想も現れるようになった。「玄関の外に検察がおる!」と繰り返し叫んでいたという。

 昌子さんも辛かった。

「壊れたみたいにずっと同じことを繰り返しているんです。職場に復帰しないとお金がない。でも復帰したら検察に呼ばれる。その板挟みが本当に辛かったんだと思います」


「まさに生き地獄」

 この頃、俊夫さんは「苦しくてつらい症状の記録」という文書を書いた。そこには次のように記されている。

「これまでのキャリア、大学すべて積み上げたものが消える怖さと、自身の愚かさ」

「家内や、家内の家族・親戚の皆様にも迷惑をかけることが本当に苦しい」




「まさに生き地獄」

「家内にそのまま気持ちをぶつけて、彼女の心身を壊している自分は最低の生き物、人間失格」

 あれほど尊敬していた上司の池田氏についても批判を口にするようになる。

「池田さんは仕事が雑や。池田さんがちゃんと(国有地を)売っていたらこんなことにならんかった。大学に売っとったらよかったんや」

 大学とは大阪音楽大学のこと。問題の国有地の隣接地にあり、森友学園より先にこの国有地の購入を希望して7億円以上の金額を提示したとされるが、近畿財務局は売らなかった。それを森友学園には1億3400万円で売っている。

 そしてついに改ざんが明るみに出る日が来た。


朝日新聞の第一報

 2018年3月2日、朝日新聞に記事が出たのだ。「森友文書 書き換えの疑い」「財務省、問題発覚後か」「交渉経緯など複数箇所」の見出しが躍った。

 昌子さんはこの日のこともよく覚えている。

「朝、スマホで記事を見て、『この人のやったこと、これやったんや』とすぐわかりました。本人に見せたくなかったけど、結局、見てしまった。ものすごく落ち込んで『死ぬ、死ぬ』と繰り返してました。夜中にロープを持って出ていこうとしたので止めたんです」

 翌3日、俊夫さんは外出中の昌子さんに「もうぼくは山におるからメールもしてこんで」とメールを送ってきた。この時は昌子さんが探しに行って連れ帰ることができた。6日には「死ぬところを決めている」と言って再び山に向かおうとした。

 そんな状況で彼はこの「手記」を書き上げた。なぜ自分が追い詰められなければならないのか? この不条理に対し最後の力を振り絞って、真実を書き残しておくために。



《役所の中の役所と言われる財務省でこんなことがぬけぬけと行われる。

 森友事案は、すべて本省の指示、本省が処理方針を決め、(中略)嘘に嘘を塗り重ねるという、通常ではあり得ない対応を本省(佐川)は引き起こしたのです。

 この事案は、当初から筋の悪い事案として、本省が当初から鴻池議員などの陳情を受け止めることから端を発し、本省主導の事案で、課長クラスの幹部レベルで議員等からの要望に応じたことが問題の発端です。

 いずれにしても、本省がすべて責任を負うべき事案ですが、最後は逃げて、近畿財務局の責任とするのでしょう。

 怖い無責任な組織です。》




「いってらっしゃい」ではなく「ありがとう」

 手記の文面から、最後に書き上げたのは死の当日の3月7日と見られる。改ざん発覚の5日後だ。この日、昌子さんが出勤する際、いつもはぐったりしている俊夫さんが玄関まで見送りに来て言った。「ありがとう」……「いってらっしゃい」ではなく「ありがとう」。あれは死ぬ決意の表れだったのだろうと、今、昌子さんは思う。

 職場から昌子さんはショートメールを送った。最初は11時45分。「大丈夫かな?」というメッセージにすぐ「はい」という返事が返ってきた。ところが16時6分、「疲れるほど悩んでる? 悩んだらだめよ」というメッセージにはいつまでも返事が来ない。不安になった昌子さんは職場を早退し急いで自宅に戻った。すると……。

 昌子さんは自宅の部屋の窓を指しながら語った。




「あそこの手すりにひもをかけて首をつっていたんです。普通ならまず119番しますよね。でも私は『財務局に殺された』って思いがあるから、つい110番に電話しちゃったんです」

 俊夫さんの「手記」は次の言葉で締めくくられている。これは彼が命を絶つ直前に渾身の思いで書き残した“遺書”であり、不正の告発文書なのだ。



《◯刑事罰、懲戒処分を受けるべき者

 佐川理財局長、当時の理財局次長、中村総務課長、企画課長、田村国有財産審理室長ほか幹部

 担当窓口の杉田補佐(悪い事をぬけぬけとやることができる役人失格の職員)

 この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任をどう取るか、ずっと考えてきました。

 事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません。

 今の健康状態と体力ではこの方法をとるしかありませんでした。(55歳の春を迎えることができない儚さと怖さ)

家族(もっとも大切な家内)を泣かせ、彼女の人生を破壊させたのは、本省理財局です。

 私の大好きな義母さん、謝っても、気が狂うほどの怖さと、辛さこんな人生って何?

 兄、甥っ子、そして実父、みんなに迷惑をおかけしました。

さようなら》



 これとは別に、妻に宛てた手書きの遺書もある。


《「昌子へ

これまで本当にありがとう

ゴメンなさい 恐いよ、

心身ともに滅いりました」》

 俊夫さんは死の前日、仲が良かった昌子さんの母に「あすは検察なんです」と話していたという。しかし今となっては、それが事実だったのかどうかはわからない。

 命日は3月7日。俊夫さんの誕生日は3週間後の3月28日。「手記」にある通り、彼が55歳の春を迎えることはなかった。





「トシくんは亡くなって、財務局は救われた。それっておかしくありませんか?」財務省職員の妻が提訴した理由【森友スクープ全文公開#3】 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/36820



「週刊文春」2020年3月26日号に掲載された大阪日日新聞記者・相澤冬樹氏による記事「森友自殺〈財務省〉職員遺書全文公開 『すべて佐川局長の指示です』」が大きな反響を呼んでいる。「週刊文春」編集部は完売により記事が読めない状況を鑑み、文春オンラインで全文公開する。真面目な公務員だった赤木俊夫さんに何が起きていたのか。森友問題の「真実」がここにある。

(#1、#2より続く)

出典:「週刊文春」2020年3月26日号



◆ ◆ ◆

「ぼくの契約相手は国民です」

 私が初めてご自宅に伺った時、昌子さんは俊夫さんの書斎を見せてくれた。今も生前のまま残されているその部屋には、本棚にハードカバーの書籍がびっしり並んでいる。哲学や思想などの本が多い。

 趣味も多彩だった。中でも書道は一生続けたいと考え、筆や墨などの高価な道具を多数買いそろえていた。棚にきちんと分類され整理されて並んでいる様は、几帳面な性格を表しているようだ。

 音楽や建築、落語にも造詣が深かった。仕事から帰宅すると、この書斎で本を読んだり落語を聞いたりコンサートのチケットをとったり。土日は部屋にこもって書道に集中した。

 建築家の安藤忠雄さんや、音楽家の坂本龍一さんのことがとりわけ大好きだった。1993年、まだ若い頃、近畿財務時報という部内誌に寄稿している。題は「坂本龍一探究序説」。その中に「逃避することのできない社会現象の不合理性や構造の矛盾」という言葉がある。今になってみると将来を暗示しているかのようだ。

 彼の人となりを昌子さんは懐かしそうに語る。

「趣味が幅広くって、自分のために投資を惜しまない人です。私にも、私が何かを買おうとすると『最高の物を買って』と言ってくれました」


「自分の考えがしっかりあって、自分の生きる道を筋道立てて前に進んでいく。いいかげんには生きていない人でした。誠実で優しくて、けんかはほとんどしたことがありません。相談したら何でも答えてくれる、包容力もある、何でも一生懸命でした」

 赤木俊夫さんは63年、岡山県の出身。高校卒業後、当時の国鉄に就職したが、87年の分割民営化で中国財務局に採用され、鳥取財務事務所に勤めた。その時、私がNHKから転職した大阪日日新聞の経営母体である鳥取の地元紙「日本海新聞」を愛読していたというから、意外なご縁がある。その後、立命館大学法学部(当時あった夜間コース)に進学するため近畿財務局京都財務事務所に移り、以後は関西各地で勤務した。口ぐせは「ぼくの契約相手は国民です」。まじめで明るい公務員だった。


近畿財務局の上司が「遺書があるなら見せてほしい」

 しかし俊夫さんの死後、近畿財務局の振る舞いは昌子さんを大きく傷つけた。

 俊夫さんが亡くなった翌日、近畿財務局の上司にあたる楠管財部長が自宅を訪れ、「遺書があるなら見せてほしい」と昌子さんに求めたという。「私はものすごく怒りました。だって森友のことで死んだのは間違いないじゃないですか。はっきり断りました」

 昌子さんの目の前で「赤木を殺したのは朝日新聞や!」と叫んだ職員もいた。でも昌子さんは「殺したのは財務省でしょ」と冷ややかに見ていた。「財務局で働きませんか?」とも持ちかけられたという。昌子さんは「佐川さんの秘書にしてくれるならいいですよ。お茶に毒盛りますから」と答えた。痛烈な皮肉に相手は沈黙した。




麻生太郎財務大臣をめぐる対応に唖然

 さらに納得がいかないのは、麻生太郎財務大臣をめぐる対応だ。俊夫さんが亡くなって3カ月がたった6月、俊夫さんと親しかった財務省職員Fさんから電話があった。「麻生大臣が墓参に来たいと言っているがどうか?」と聞いてきたのだ。昌子さんは「来て欲しい」と答えた。ところがFさんは、昌子さんに黙って昌子さんの兄に電話をかけ、「妹さんは大臣に来て欲しいと言っていますが、マスコミ対応が大変だから断りますよ」と一方的に告げたのだという。昌子さんは次の日、Fさんからそのことを告げられて唖然とした。


 しばらくして麻生大臣が国会で「遺族が来て欲しくないということだったので伺っていない」と答弁しているのを見た。翌年にも同じように答弁している。

 それからまもなく、近畿財務局の美並局長(当時)がお供の人たちと自宅を訪れた。その際、美並局長は「大臣の墓参を断ってくれてありがとう」と述べたという。昌子さんは「私、そんなこと言ってないのに」と憤った。

 翌年19年2月、財務省の岡本薫明事務次官が自宅に弔問に訪れた際は、同行していた近畿財務局の職員から「一番偉い人ですよ。わかってます?」と言われた。こうした積み重ねが、昌子さんの心を財務省から引き離していった。

「もともと夫の勤め先だから悪くいうつもりはなかったんですけど、あんまりひどいじゃないですか」


「トシくんは亡くなって、財務局は救われた。おかしくありませんか?」

 俊夫さんの話題になると、昌子さんは毎回「トシくんがかわいそう」と涙ぐむ。夫はなぜ亡くならなければならなかったのか? それを知りたくて昌子さんは、俊夫さんの同僚だった人たちから話を聞こうとした。しかしなかなか会ってくれない。俊夫さんが心から信頼していた上司の池田氏は2回、自宅に来てくれた。だがすべてを正直に話してくれたとは思えない。

 去年の暮れのある朝、昌子さんから電話がかかってきた。「ひどいんです」と。池田氏が「もう二度と会えない」と伝えてきたのだ。「ひどくありませんか? 話が聞きたいだけなのに。トシくんがかわいそうで………」。時折声を詰まらせながら訴えるその口調は、抑えようがない憤りの気持ちを表していた。数十分間の通話で私は「昌子さんの言うとおりです」と答えるしかなかった。

 親友だったFさんは「近財(近畿財務局)は赤木に救われた」と話したことがあるという。昌子さんは思う。




「それってどういうことですか? トシくんは亡くなって、財務局は救われた。それっておかしくありませんか?」

 むろん、おかしい。そのくせ池田氏をはじめ近畿財務局の人たちはみんな昌子さんの周辺から遠ざかっていく。「もうこれ以上関わりたくない」という気持ちが如実に表れている。


 昌子さんは、俊夫さんが「手記」で改ざんの責任者と指摘している佐川氏についても弔問に来て欲しいと願っている。トシくんの仏壇の前で謝罪し説明してほしいと。だから弁護士を通じて去年2回、佐川氏の自宅に手紙を送り、来訪を求めた。だが返事は来ない。財務省の関係者から人づてに、佐川氏が手紙を「しっかりと読ませて頂いた」と話していると聞いた。でも、読んでどう感じたかの話はない。

 こうして次第に昌子さんの中で「真相を知るには裁判しかない」という気持ちが芽生えていった。夫の死には佐川氏も相当の責任があるだろう。だから裁判を起こすとしたら佐川氏も訴えたい。そうすれば法廷で佐川氏に問い質すことができるかもしれない。

弁護士と相談を重ね、佐川氏個人も被告に

 通常、この手の事件では「国家公務員の行為は国が責任を負う」という国家賠償法の規定に基づき、国だけを相手に裁判を起こす。だがこのケースは、到底通常の公務とは言えない違法な改ざん行為をさせた責任を問うのだ。公務と言えないなら個人の責任だろう。しかも佐川氏は当然、謝罪と説明を行うべきだが、遺族の求めに全く応じていない。これはまさに佐川氏個人の責任だ。昌子さんは弁護士と相談を重ね、佐川氏個人も被告に加えることにした。


裁判の目的はお金ではなく真相究明

 昌子さんとしては、お金のためではなく真相究明のための裁判だから、賠償金額はいくらでもいいと考えていた。しかし弁護士によると、安い金額では国が「認諾」と言ってこちらの主張を丸呑みして認めてしまう。請求額を支払うことで裁判をすぐに終わらせ、それによって遺族側に原因追及をさせないことが狙いだ。

 そうさせないためには、丸呑みできない金額で訴えるしかない。佐川氏と国に対し、総額1億1000万円余の賠償を求めるつもりだ。

 裁判はあくまで佐川氏を法廷に呼び出し、謝罪を求め、真相を追究するのが目的だ。訴状の冒頭にも「本件訴訟の目的は、第一に、なぜ亡俊夫が本件自殺に追い込まれなければならなかったのか、その原因と経過を明らかにする点にある」と明記されている。だから勝訴して得られた賠償金は、何らかの形で世のため人のために役立てたいと考えている。特に、二度と公文書改ざんなどという不正が起きないようにするために。


佐川氏の自宅を訪れると……

 3月15日、私は東京都内の佐川氏の自宅を訪れた。室内に灯りがついている。誰かがいることは間違いない。インターホンを押した。一度、二度。反応はない。三度目、私はインターホンの前に俊夫さんの手記を掲げて言った。「佐川さん、これは近畿財務局の亡くなった赤木さんが遺した手記です。これを読んで頂けませんか?」……それでも反応はない。家の中で聞いているのか、見ているのかもわからない。最後に私は「手紙を郵便受けに入れておきますので、お読みください」と言い残し、その場を立ち去った。これを昌子さんに伝えると、「私も何度もピンポンされる恐怖を味わったので少し気の毒です」と話した。夫を追い詰めた佐川氏にも同情を寄せる心優しい人なのだ。

 現在62歳の佐川氏。2年前に国税庁長官を辞任した後は再就職もせず、財務省OBの集まりなどにも顔を出していないという。

「全責任を負う」と言ったとされる美並氏にも取材を申し入れると、「決裁文書の改ざんについては、平成30年6月4日に調査報告書を公表している通りです。お亡くなりになられた職員については、誠に残念なことであり、深く哀悼の意を表したいと思います」と財務省の広報室を通じて回答があった。

 3月18日、昌子さんは大阪地裁に提訴する。被告となる国と佐川氏は、どのように応じるだろうか? さらに、責任があると名指しされた財務官僚たちは? 彼らを統率する責任がある安倍首相と麻生財務大臣は? そしてそもそもの発端となった森友学園の小学校の名誉校長だった首相夫人の安倍昭恵さんは? みな、赤木俊夫さんと昌子さんの訴えをどのように受けとめるだろうか?





自殺した財務省職員・赤木俊夫氏が遺した「手記」全文【森友スクープ全文公開#4】 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/36821



「週刊文春」2020年3月26日号に掲載された大阪日日新聞記者・相澤冬樹氏による記事「森友自殺〈財務省〉職員遺書全文公開 『すべて佐川局長の指示です』」が大きな反響を呼んでいる。「週刊文春」編集部は完売により記事が読めない状況を鑑み、文春オンラインで全文公開する。真面目な公務員だった赤木俊夫さんに何が起きていたのか。森友問題の「真実」がここにある。(本記全文 #1、#2、#3も公開中)



出典:「週刊文春」2020年3月26日号



◆ ◆ ◆

手記

平成30年2月(作成中)

〇はじめに

 私は、昨年(平成29年)2月から7月までの半年間、これまで経験したことがないほど異例な事案を担当し、その対応に、連日の深夜残業や休日出勤を余儀なくされ、その結果、強度なストレスが蓄積し、心身に支障が生じ、平成29年7月から病気休暇(休職)に至りました。

 これまで経験したことがない異例な事案とは、今も世間を賑わせている「森友学園への国有地売却問題」(以下「本件事案」という。)です。

 本件事案は、今も事案を長期化・複雑化させているのは、財務省が国会等で真実に反する虚偽の答弁を貫いていることが最大の原因でありますし、この対応に心身ともに痛み苦しんでいます。

 この手記は、本件事案に関する真実を書き記しておく必要があると考え、作成したものです。

 以下に、本件事案に関する真実等の詳細を書き記します。



1.森友学園問題

 私は、今も連日のように国会やマスコミで政治問題として取り上げられ、世間を騒がせている「森友学園への国有地売却問題」(以下「本件事案」という。)を、昨年(平成29年)2月から担当していました。

 本件事案が社会問題化することとなった端緒は、平成29年2月9日、朝日新聞がこの問題を取り上げたことです。

(朝日新聞が取り上げた日の前日の平成29年2月8日、豊中市議が国を相手に、森友学園に売却した国有地の売買金額の公表を求める訴えを提起)



 近畿財務局が、豊中市に所在する国有地を学校法人森友学園(以下「学園」という。)に売却(売買契約締結)したのは平成28年6月20日です。

 私は、この時点では、本件事案を担当していませんので、学園との売買契約に向けた金額の交渉等に関して、どのような経緯があったのかについてはその事実を承知していません。



2.全ては本省主導

 本件事案の財務省(以下「本省」という。)の担当窓口は、理財局国有財産審理室(主に担当の杉田補佐、担当係長等)です。

 杉田補佐や担当係長から、現場である財務局の担当者に、国会議員からの質問等の内容に応じて、昼夜を問わず資料の提出や回答案作成の指示(メール及び電話)があります。

 財務局は本省の指示に従い、資料等を提出するのですが、実は、既に提出済みのものも多くあります。

 通常、本件事案に関わらず、財務局が現場として対応中の個別の事案は、動きがあった都度、本省と情報共有するために報告するのが通常のルール(仕事のやり方)です。

 本件事案は、この通常のルールに加えて、国有地の管理処分等業務の長い歴史の中で、強烈な個性を持ち国会議員や有力者と思われる人物に接触するなどのあらゆる行動をとるような特異な相手方で、これほどまで長期間、国会で取り上げられ、今もなお収束する見込みがない前代未聞の事案です。

 そのため、社会問題化する以前から、当時の担当者は、事案の動きがあった際、その都度本省の担当課に応接記録(面談等交渉記録)などの資料を提出して報告しています。

 したがって、近畿財務局が、本省の了解なしに勝手に学園と交渉を進めることはありえないのです。本省は近畿財務局から事案の動きの都度、報告を受けているので、詳細な事実関係を十分に承知しているのです。


できるだけ後送りとするよう指示

(1)国会対応

 平成29年2月以降ほとんど連日のように、衆・参議院予算委員会等で、本件事案について主に野党議員から追及(質問)されます。

 世間を騒がせ、今も頻繁に取り上げられる佐川(前)理財局長が一貫して「面談交渉記録(の文書)は廃棄した」などの答弁が国民に違和感を与え、野党の追及が収まらないことの原因の一つとなっています。




 一般的に、行政上の記録を応接記録として作成された文書の保存期間は、文書管理規則上1年未満とされていますので、その点において違法性はないと思いますが、実際には、執務参考資料として保管されているのが一般的です。

 この資料(応接記録)を文書管理規則に従って、終始「廃棄した」との説明(答弁)は、財務省が判断したことです。その理由は、応接記録は、細かい内容が記されていますので、財務省が学園に特別の厚遇を図ったと思われる、あるいはそのように誤解を与えることを避けるために、当時の佐川局長が判断したものと思われます。


(2)国会議員への説明

 本件事案に関して、野党議員を中心に財務省に対して、様々な資料を要求されます。

 本省は、本件事案が取り上げられた当初の平成29年3月の時点では、全ての資料を議員に示して事実を説明するという姿勢であったのです。

 ところが、(当時)佐川理財局長の指示により、野党議員からの様々な追及を避けるために原則として資料はできるだけ開示しないこと、開示するタイミングもできるだけ後送りとするよう指示があったと聞いています。(現場の私たちが直接佐川局長の声を聞くことはできませんが、本省(国有財産審理室)杉田補佐からは局長に怒られたとよく言っていました。)



 また、野党に資料を提出する前には、国会対応のために、必ず与党(自民党)に事前に説明(本省では「与党レク」と呼称。)した上で、与党の了承を得た後に提出するというルールにより対応されていました(杉田補佐、近畿財務局楠管財部長などの話)。



(3)会計検査院への対応

 国会(参議院)の要請を受けて、近畿財務局が本件事案に関して会計検査院の特別検査を、昨年平成29年4月と、6月の2回受検しました。

 受検時には、佐川理財局長の指示を受け、本省理財局から幹部職員(田村国有財産審理室長、国有財産業務課福地補佐ほか、企画課係長)が派遣され、検査会場に同席し、近畿財務局からの説明を本省幹部職員が補足する対応がとられました。


その際、本省の検査院への対応の基本姿勢は、次のとおりです。

 ① 決議書等の関係書類は検査院には示さず、本省が持参した一部資料(2~3分冊のドッチファイルを持参)の範囲内のみで説明する

 ② 現実問題として、上記①のみでは検査院からの質問等に説明(対応)できないとして、田村審理室長が、近畿財務局に保管されている決裁文書等を使用して説明することはやむを得ないと判断して、①の対応が修正された




 ③ 応接記録をはじめ、法律相談の記録等の内部検討資料は一切示さないこと、検査院への説明は「文書として保存していない」と説明するよう事前に本省から指示がありました(誰から誰に指示がされたかは不明確ですが、近畿財務局が作成した回答案のチェックを本省内関係課で分担され、その際資料は提示しないとの基本姿勢が取られていました)


(注)この時、法律相談の記録等の内部検討資料が保管されていることは、近畿財務局の文書所管課等(統括法務監査官、訟務課、統括国有財産管理官(1))の全ての責任者(統括法務監査官、訟務課長、統括国有財産管理官)は承知していました。

 したがって、平成30年2月の国会(衆・予算委員会等)で、財務省が新たに議員に開示した行政文書の存在について、麻生財務大臣や、太田理財局長の説明「行政文書の開示請求の中で、改めて近畿財務局で確認したところ、法律相談に関する文書の存在が確認された」(答弁)は、明らかに虚偽答弁なのです。

 さらに、新聞紙上に掲載された本年1月以降に新たに発覚したとして開示した「省内で法的に論点を検討した新文書」について、本年2月19日の衆院予算委員会で、太田理財局長が「当初段階で、法務担当者に伝え、資料に気付く状況に至らなかった。法務担当に聞いていれば(文書の存在)に気付いていたはずだ」との答弁も全くの虚偽である。

 それは、検査の際、この文書の存在は、法務担当に聞かなくても、法務担当以外の訟務課・統括国有財産管理官は作成されていることを当然認識しています。これも近畿財務局は本省主導で資料として提示しないとの基本的な対応の指示に従っただけなのです。

 また、本省にも報告され保管されていることは、上記2に記載している本省と財務局との情報共有の基本ルールから明らかです。


詭弁を通り越した虚偽答弁が続けられた

(4)財務省の虚偽答弁

 本省が虚偽の答弁を繰り返していることを再掲しますと、

 上記(1)国会対応、(2)国会議員、(3)会計検査院への対応の全ては、本省で基本的な対応のスタンスが決められました。




 特に、(3)では、本省から財務局に以下の対応の指示がありました。

 ● 資料は最小限とする

 ● できるだけ資料を示さない

 ● 検査院には法律相談関係の検討資料は「ない」と説明する

 この事案の対応で、先の国会で連日のように取り上げられた佐川(当時)理財局長の国会答弁の内容と整合性を図るよう、佐川局長や局長の意向を受けた本省幹部(理財局次長、総務課長、国有財産企画課長など)による基本的な対応姿勢が全てを物語っています。


(疑問)

 財務省は、このまま虚偽の説明を続けることで国民(議員)の信任を得られるのか。

 当初、佐川理財局長の答弁がどこまでダメージコントロールを意識して対応されていたかといえば、当面の国会対応を凌ぐことだけしか念頭になかったのは明らかです。



3.財務省は前代未聞の「虚偽」を貫く

 平成30年1月28日から始まった通常国会では、太田(現)理財局長が、前任の佐川理財局長の答弁を踏襲することに終始し、国民の誰もが納得できないような詭弁を通り越した虚偽答弁が続けられているのです。

 現在、近畿財務局内で本件事案に携わる職員の誰もが虚偽答弁を承知し、違和感を持ち続けています。

 しかしながら、近畿財務局の幹部をはじめ、誰一人として本省に対して、事実に反するなどと反論(異論)を示すこともしないし、それができないのが本省と地方(現場)である財務局との関係であり、キャリア制度を中心とした組織体制のそのもの(実態)なのです。

 本件事例を通じて、財務省理財局(国有財産担当部門)には、組織としてのコンプライアンスが機能する責任ある体制にはないのです。



4.決裁文書の修正(差し替え)

 本年3月2日の朝日新聞の報道、その後本日(3月7日現在)国会を空転させている決裁文書の調書の差し替えは事実です。


 元は、すべて、佐川理財局長の指示です。

 局長の指示の内容は、野党に資料を示した際、学園に厚遇したと取られる疑いの箇所はすべて修正するよう指示があったと聞きました。

 佐川理財局長の指示を受けた、財務本省理財局幹部、杉田補佐が過剰に修正箇所を決め、杉田氏の修正した文書を近畿局で差し替えしました。




 第一回目は昨年2月26日(日)のことです。

 当日15時30分頃、出勤していた池田靖統括官から本省の指示の作業が多いので、手伝って欲しいとの連絡を受け、役所に出勤(16時30分頃登庁)するよう指示がありました。

 その後の3月7日頃にも、修正作業の指示が複数回あり現場として私はこれに相当抵抗しました。

 楠管財部長に報告し、当初は応じるなとの指示でしたが、本省理財局中村総務課長をはじめ田村国有財産審理室長などから楠部長に直接電話があり、応じることはやむを得ないとし、美並近畿財務局長に報告したと承知しています。


 美並局長は、本件に関して全責任を負うとの発言があったと楠部長から聞きました。

 楠部長以外にも、松本管財部次長、小西次長の管財部幹部はこの事実をすべて知っています。

 本省からの出向組の小西次長は、「元の調書が書き過ぎているんだよ。」と調書の修正を悪いこととも思わず、本省杉田補佐の指示に従い、あっけらかんと修正作業を行い、差し替えを行ったのです。

(大阪地検特捜部はこの事実関係をすべて知っています)



 これが財務官僚機構の実態なのです。

 パワハラで有名な佐川局長の指示には誰も背けないのです。

 佐川局長は、修正する箇所を事細かく指示したのかどうかはわかりませんが、杉田補佐などが過剰反応して、修正範囲をどんどん拡大し、修正した回数は3回ないし4回程度と認識しています。

 役所の中の役所と言われる財務省でこんなことがぬけぬけと行われる。


謝っても、気が狂うほどの怖さと、辛さ

 森友事案は、すべて本省の指示、本省が処理方針を決め、国会対応、検査院対応すべて本省の指示(無責任体質の組織)と本省による対応が社会問題を引き起こし、嘘に嘘を塗り重ねるという、通常ではあり得ない対応を本省(佐川)は引き起こしたのです。

 この事案は、当初から筋の悪い事案として、本省が当初から鴻池議員などの陳情を受け止めることから端を発し、本省主導の事案で、課長クラスの幹部レベルで議員等からの要望に応じたことが問題の発端です。

 いずれにしても、本省がすべて責任を負うべき事案ですが、最後は逃げて、近畿財務局の責任とするのでしょう。




 怖い無責任な組織です。


〇刑事罰、懲戒処分を受けるべき者

 佐川理財局長、当時の理財局次長、中村総務課長、企画課長、田村国有財産審理室長ほか幹部

 担当窓口の杉田補佐(悪い事をぬけぬけとやることができる役人失格の職員)

 この事実を知り、抵抗したとはいえ関わった者としての責任をどう取るか、ずっと考えてきました。

 事実を、公的な場所でしっかりと説明することができません。

 今の健康状態と体力ではこの方法をとるしかありませんでした。(55歳の春を迎えることができない儚さと怖さ)

 家族(もっとも大切な家内)を泣かせ、彼女の人生を破壊させたのは、本省理財局です。

 私の大好きな義母さん、謝っても、気が狂うほどの怖さと、辛さこんな人生って何?

 兄、甥っ子、そして実父、みんなに迷惑をおかけしました。

さようなら

(編集部注 明らかな誤字・脱字に限り修正、その他はすべて原文のまま掲載)


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